発足前夜

発足前夜

昭和46年当時、群馬県伊勢崎市内には主に三つの合唱団があった。しかし、どの合唱団も運営には大変苦労しているようであった。人員・発表機会・資金の確保、レベルアップなどアマチュア合唱団のかかえる共通の悩みはどこも同じであった。

人数が増えてはまた減り、同じことの繰り返しに打つ手も無くやがて消滅してゆくのがアマチュア合唱団の運命でもあった。

戦後隆盛を誇った「歌声運動」もすっかり下火となり、合唱経験を持つ青少年はめっきり少なくなり、コーラスは時代遅れの感が漂い始めていた時期でもあった。

わが街の合唱団も、そんな時代の流れに逆らうことが出来ず、それぞれの合唱団の人員も2桁を割り、数名が残されているといった、万事休すの状態であった・・・。

しかしそれぞれの合唱団にも、必ず一人二人、コーラスが何より好きといったいわゆる合唱バカといわれるような人がいるもので、この時期にも、それぞれにコーラスのヌシみたいなメンバーが残っていた
三つの合唱団のヌシたち3人はやがてお互いの合唱団にの練習に顔を出すようになり、いつかわが街を代表するような、県下に鳴り響くような、新しい時代のさきがけとなるような、立派な合唱団を創ろうという共通の夢を抱くようになっていた。

そうなると青年らしい行動力は一刻のためらいもなく、一つにまとまって新しい合唱団をつくる方向へ向かっていった。格団の解散と新合唱団設立のための準備に全力を傾けていった。名称を合唱団コール・ルーエと決定し、指導者は特に迎えないで基本的にすべてを団員で運営することで意見が一致した。

そして間もなく三人を中心に以前の合唱団から希望者を集め、総勢15~6人の真新しい合唱団が我が街に産声をあげた。

学生時代に合唱の魅力に取り付かれた若者たちが、社会に出てなお、コーラスの魅力を追求し、広く、高く、大きく夢を育ててゆこうと、気の遠くなるような道のりを歩み始めたのである。

昭和50年11月のことであった・・・。

発足

国内ではフォークソングブームの流れを汲んで、ニューミュージックが注目を浴びていた。荒井由美、小椋佳、井上陽水、吉田拓郎、南こうせつなどが活躍を始めた。従来のプロの音楽にあきたらずアマチュアによる音楽作りの時代が始まったようであった。

そんななか、市内3つの合唱団の有志によりルーエは発足した。ルーエとはドイツ語でRuhe-やすらぎ、平穏-の意である。
この団体にくれば「ほっとする・・」そのような願いを込めてのネーミングであった。

週1度、火曜日 PM7:00~9:00までの練習であった。今日のような車社会が定着した時代ではなく、日が暮れるとポツリ、ポツリと団員が徒歩、自転車などで集まって来た。

10名ほどの人数で世界各地の民謡などを主に歌っていた。合唱のほうは、あまりうまくならなかった。メンバー7名ささやかなスタートであったが、その後人員が多少増え10余名の合唱団になった。

歌よりも、むしろ団員の家でのおでんパーティー、花見、飲みかつ歌い騒ぐ1泊2日の合宿、ピクニック、忘年会など遊ぶことに専念し、まことに楽しかった。