初代団長 杉原 謙治
その昔、何人かの歌好き仲間が集り、この街に、一つ自前で毎年コンサートが開けるような合唱団を創ろうと夢を語り合ったことがあった。そしてそれにはまずちゃんとした名前を決めようと思い至ったわけである。
あれこれと考えあぐねて、ほとほと決めかね名前ひとつ決めるのがこんなに難しいことかと、その時つくづく思った。一度決めたら、この合唱団が続く限りずっと未来へ引き継がれてゆくわけである。いつの時代もその名前が古臭くならず、愛着を持ち続けられる名前でなくては…。当時市内には幾つかの合唱団があったが、定期的に練習はするものの単独で発表会が出来る程の力はなかった。公民館活動、会社のコーラス部、女子高の音楽部など数は結構あったが、時々合同発表会をやるのが精一杯のレベルであった。
そんな時に前述のような理想的な合唱団を創ろうと云うのだから、随分気の遠くなるような夢物語でもあった。
その頃、周辺の前橋、高崎、太田、桐生の各市には実力歴史共に力を持った合唱団が乱立していた。それらに負けないような我が街の合唱団を創ろうと意気込んだわけである。
さてさて、合唱団創立の夢の前にまず魅力的な名前を、というところですでに立ち往生してしまったというわけだ。夜中を過ぎてもう皆半分居眠りを始めた頃、一人の男が先程から黙々と何かを調べていたのが、ふと、シューベルトの歌曲集「冬の旅」の中に「憩い」という曲を見つけ、「これだ!こ れに決まりだ!」と叫んだのである。
皆ハッと目を覚まし、何のことやら分からず、彼の興奮に付き合った。
「憩い」、ドイツ語で「ルーエ」、「合唱団コール・ルーエ、これでどうだ!」と高らかに叫んだのである。(ちょっと大げさかな…)
とうとう納得する名前を見つけた!喜びと安堵感に私達は包まれていた。
そして誰からともなく、今「ルーエ」という名前はここにいる俺達しか知らないな、でもいつの日か、多くの人の中に広がり、「ルーエ」という名が、いろいろな人達の口の端に上るようになると嬉しいよな、と言い合った。
そして40年、「ルーエ」という名前が、いつの間にか「市民権」を持ってきているのではないかと、創立に係わった者として、あの頃の若き日々を思い出している今日この頃である。